相手をコントロールしようとする人が苦手です 相手が都合の良いような形であることを望むというか、利害が一致してるから付き合うとか、そういうことが本当に苦手です
そういう人に出会うと、
「思うようにこちらをコントロールしようとしてきてるなぁ」と感じるし、何らかの目的を持って近づいてきたのかな、と思ってしまう そのように感じてしまうことは、とても悲しい
そもそも、自分は目的(裏)のある人間関係の構築をしたいと思わない 相手は自分の欲求を満たすために生きているわけではないし、お互いが自由である方が良いと考えているから
利害が一致してるから人付き合いするって、利害で繋がるって、自分はしたいとは思わない その繋がりは信用で繋がってないし、脆い
信用は、あなたも私も、相手を脅かしたりコントロールしません、という気持ちでお互いがいないと生まれないと思っている
信用は「湧いてくる」ものではないか
信用が生まれていない相手からのお願いみたいなものは、地元に戻ってきてからよくあった 団体のメンバーとして活動していた期間
地元に戻って団体のメンバーとして活動してた期間、「◯◯手伝ってください」とか、初見であったり会ってもないのにSNSのDMで言われることがよくあった(自分は団体のSNSを管理していた)
活動してたのは自分のためであって「言われたことを無料でなんでもお手伝いします!あなたの自己実現をお手伝いします‼︎」というスタンスでやっていたわけではない
「手伝ってください」って言うのは全然良い
言うこと自体は全然良い
でもこちらも受け取らなくたって全然良い
仮に自分が己の目的のために他者を利用したりコントロールする人格だったら見返りを求めて手を貸すことはアリだったけど、そうではないので、ただひたすら残念な気持ちになっていた なんだかんだSNSの告知くらいなら手伝ってたけど、信頼関係が生まれてない相手に使う時間はただの「作業」でしかなかった
めっちゃ思うんだけど、何か活動するのって自発的な動機で自分のためにやるのであって、よくわからん人の仲間になるために活動してるわけじゃない 自分のためにやってたのであって、他人の自己実現のためにやってたわけではない
仕事、家庭、地域以外では「自由」が尊重されるべきだと自分は考えている 自分に対しても他人に対しても自由を認めることが大事 自由は、ひとりひとりが己の人生を活き活きと生きるために大事なことだと思う 生きる上で最低限果たすべき責任以上のものは、持っていない方が身軽ではないか
もちろん責任が生じる場所は存在する
それが、会社、家庭、地域
役割が存在するため、その役割は全うする必要がある
個人的には、仕事以外でプロジェクトじみたことはもうやりたくない 自分の中では、プロジェクト=期限が決まっていて共通の目的があること そこには責任や役割が生じる
団体の一員として活動めいたことをやることは、よほど考えが変わらない限りは、もうやらないと思う なぜか 目標達成のために一生懸命になって他の人の気持ちを害してしまうことに繋がりかねないからだ
自分の場合、活動をプロジェクトという意識で取り組んじゃうから、そこで繋がった人とは気軽に話せる「友達」ではいられない これが一番嫌なことだ 誰とでも自由に気軽にいろいろ話せる関係性であることを自分は望んでいる
「友達」とは何か これに関しては、はっきりしたことは言えない そのうえ、自分から相手のことを「友達」とは言わない
関係性に名前をつけることで、◯◯だから友達、◯◯以外は友達ではない、という線引きは、つくりたくない 自分の勝手な認識で人を括ったり線引きしたりはしたくない
思考に偏りがあるが、自分の中では家族含め全ての人が「他人」というカテゴリになっている 自分にとって本当に必要な線引きは、「自分」と「他人」だけだ あなた と 私 という線引きは意識したい ここが曖昧だとトラブルに繋がる
人から「友達」と言われることに関しては不快にならない(信用できる相手の場合) その言葉には、単なる他人でなく、信用や思いやりのニュアンスが含まれていると感じるから
自分から相手のことを友達だと言わないけど、友達だ、と言ってくれた相手のことは、ずっと覚えてる
ともかく、関係性に名付けられた名前に関係なく、お互いが気軽に色々話せる関係でありたいと思う
そのように考えているから、相手をコントロールしようとする人が苦手だ 相手が都合の良いような形であることを望んでもいない 利害が一致してるから人付き合いするわけでもない
変な話、昔付き合いがあった人と時間が経って昔と同じような距離でなくなっても、自分はそれで良いと思っている その人が自由に生きていれば、それで良い
信用は、お互いが自由でないと生まれない
会社、家庭、地域においては、与えられた役割を互いにこなすことが信用に繋がる そういう側面もあるが、その中でも自由がある程度は互いに認められていないと、信用は生まれないんじゃないか
余暇の時間は、自由に過ごしたいから、コントロールされることは望んでいない、必要以上の責任を背負いたくない
だから冒頭に書いたようなことがあると、けっこう悲しい気持ちになってしまうな、という話でした
相手が思うように受け取らないことを自分で認めることは、自分が相手に思うように受け入れられないことを認めることにも繋がる
それでも、自分はそれで良い